浦和周辺は洪積台地と沖積低地からなり、川や沼地が多くうなぎの生息に非常に適していました。
 江戸時代、そのたくさん獲れるうなぎを中山道を行き交う人々に出して評判になったのが浦和のうなぎの始まりと言われています。生産地としての漁場が無数にあり、宿場町という消費地と直結していたことが、広く世に広まる上で大きな要因となりました。
 参勤交代の際、中山道の通行を許されたのは、加賀藩など39大名でした。浦和に投宿、遊郭に繰り出して気勢をあげた一行の御膳に出されたのが、後に「オウナ」と呼ばれたうなぎの蒲焼でした。
 県立文書館収蔵「会田真言家文書」(文政10年・1827年)には、浦和から毎年江戸は赤坂の紀州藩邸にうなぎを献上していたことが記されており、当時からうなぎが浦和の名物として知られていたことがわかります。